アミダサマ
沼田まほかるさんの「アミダサマ」を読了。
廃棄冷蔵庫の中に捨てられていた少女に呼び寄せられた僧侶と、ある青年の物語。
「ノドの裂けた」少女ミハルと「ミミの破れた」青年悠人、いわゆるテレパシーのようなもので繋がってしまった人間の不幸と、それを回避する手段、そのどちらも「愛」という、うーん、深い、面白いお話でした。
少女が成長するにつれ、町は微かな腐敗臭に満ちて悪意を孕みゆっくり爛れてゆきます。
ただ、彼女は愛し愛されているだけなのに。
作者の沼田さんは元僧侶という肩書きを持っていらっしゃるそうで、さもありなん、「阿弥陀如来」という形のないものを信仰する迷いや難しさが主人公の一人、僧侶の浄鑑の目を通して随所に織り込んであって、それも興味深いです。
例えば飼い猫のクマが死にそうになったとき、それをどうしても納得できないミハルに「クマは、どこにいくの」と問われた浄鑑とその母千賀子の答えが象徴的でした。
「ただ、いなくなるんだよ」
「クマは阿弥陀様のところへ行くのよ」
「いなくなるのと阿弥陀様のところに行くのは同じことだ」と浄鑑は急いでとりなすのですが、もちろんただそれだけの意味ではなくて、
「お経様をほったらかしにしたらばちがあたるわ」
「ばちなどあたりません。お経も数珠もただの道具、所詮は人間の弱い心の拠り所でしかないんだから」
信仰をただそのもの信仰として受け止めている千賀子と、信仰することによりその真理を読み取ろうとする浄鑑のこの微妙な解釈の差にうならされるものがありました。
それにしても、多少頭がとろくておしものゆるい女の子というのはやはり観音様である。
ほんとに優しい女の子というのは大抵やりまん(頼まれたら断れないから)で、慈愛に満ちているよねえ。
天然とかボケてるとか言われてるのにいざという時さらっと逃げれる女、あれは全部計算だよねっ!
この本のテーマのひとつは多分「受け取る愛」「与える愛」ということなのではないかと思いますが、そのもの、前者は与える女で、後者は受け取る女です。
もちろん幸せになるのは受け取る女なんだけど、そして、世の中なるべく女の子はそうあるべきだと思うけど。
私は優しいやりまんが好きだ。
無償の愛っていうのは意外と、そういうところにあるんだと思います。
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