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CabaretM1

官能小説家、深志美由紀ブログ

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好きになる

久々に長文日記。

というか全然毎週更新できていないじゃないか。

こんなもんだ!自分に何も期待するな、私!



今日もネタがないと思ってたんだけど、丁度いまツイッターでつぶやこうとしていたことをせっかくだから日記にしてみようと思います。

140文字程度で言えてしまうことを水増しするぜ!

(いや、薄めるんじゃなくて深く考察しようと言うことよ)


で、ナニを言おうとしたかっていうと、さっきとあるアーティストの青年の言葉選びがとてもセンスがよくて好きだなあって思って、あ、私ってそういうとこあるな。って思ったからなんですが、つまり、私は男を「文章」で好きになるなっていうことです。


(多分何度か書いたことがあるかもしれない)


昔から文章のうまい男性が好きだった。


この、うまい、というのはいかんせん自分の好みに左右されている問題というか、文章が上手に書けることとかそういうのとはまったく、とは言わないがあんまり関係のないことですが。


難しい言葉が分かるとか、漢字を知っているとか、文章が長いとかそういうことではない。




個人的に、どんなに容姿のすぐれたひとでも文章がつまらなかったら惹かれないのです。

喋りが面白い男性っていうのは女の子にとって魅力的で、確かに私も喋りのうまい人は好きですが、でもどんなに会話が楽しい人でも、やっぱり文章にするのが苦手な人だとだめかもしれない。

(しかし中には、文章がダメでも喋っている時にとてつもない頭の回転を見せる人がいて、そういう人は例外的に好きである。つまり異様にへりくつのうまいひとで、それは大体が悪い人だ)


わーこのひと素敵な人だなっておもっても、メールとかし始めて、もう、全然ダメだってなることがあります。

いや、ダメだって何様のつもりよって感じなんですが、なんつうか、合わない!ってなっちゃう。

むしろ、好きだ!って思って連絡先を交換してメールを始めたらガッカリして急激に嫌いになることすらある。


逆に、バカそうな喋りの男の子がメールのセンスが良かったりするとぐっとくるっていうか。

真面目ってことじゃないのよー、なんていうか。

難しい言葉じゃなくても、ぐっと来る言葉選びってあるじゃない。


メールのセンスが合わない男とは付き合えないと心底思います。



そう、主に、この、「文章」というのは今はメールに集約されているのである。


これ、多分、一昔前だったら「手紙」だったのでしょう。

手紙の上手な人、真摯な人ってすてきでしょう。

言葉や文章の接続がうまくなくても、「何を書くか」が重要って言うかさ。


「書くべきこと」を書ける人が、好きだ。


これってどういうことなんだろうと、今、自分で考えてみたんだけど、つまり、普段から自分の考えについて思考しているかどうかの、差が出るんじゃないかって思うんですよね。


思考が散漫な人は、文章も散漫。


なんか、いかにも素晴らしいというか、それっぽいこといつも言っているのに全然心に響かないなーっていう男性って結構いて、(体育会系に多い傾向)なんでだろうって思ったんですが、

そういう人は自分のことを真面目に考えたことがなく、自分が何をしたいのかもよく知らないから、表面的にきれいな、上滑りなことばかりを言うのだと思う。

まあ、これは話していてもわかることですが。



自分の内面とよく会話をしている人は、自然と、それが言葉に出るものだと思うのです。


私はそういう人が好き。

たとえ「悪い人」でも、そういう人は魅力的に見える。

(不思議と、自覚のある悪い人、ダメな人というのは言葉が面白いことが多い。自分の欲がはっきり見えているせいか)


ところで「良い人」と呼ばれている人の中には実は、自分の内面に向き合っていない人がわりといて、そういう人は常に「正しいと世間で言われていること」のほうを風見鶏のように流されて向いています。

でもそういう人にも、実はエゴがあるわけで、ふとした折に自分の本心が透けてしまって、それがいわゆる「自分で認められないこと」だったりすると自分にも他人にも酷い嘘をついたりするの。


ちょっとうまく説明できないのですが。


「なりたい自分、あるべき自分」と「本当の自分」がかけ離れているのに、それを認められない人ほど嘘が多い。

一見当たり前のことですが、この「嘘」は自分をも騙す嘘なので、一見するとまるでその人がほんとうに正しい人のように見えることがあり、その場合たいてい回りにいる人(主に恋人)が不幸なの。そしてその原因に、本人も、周りも、気付いていない。


この、嘘をつくときのポイントは何よりも「自分は、悪くない」だったりするので、そうすると必然的に周囲の人間や、環境を悪に設定することになるわけです。


もちろん本当に愛すべき良い人もたくさんいるんだけど、つまりその、ほんとに良い人か、いやな良い人かの差っていうのが、自分の内面と会話をしているかどうかなのではないかと思ったりします。




ちょっと話がズレました。


まあつまりメールとか日記とかツイッターとか、そういうので、私は男を好きになるわけよ!!

これが言いたかったの!そんだけなんだけどさ!!!


ほんとに歳とか顔とか背の高さとか痩せてるとか太ってるとかハゲてるとかち○こが小さいとか、そういうことは判断基準になりません。

ただしイケメンに限らない。本当です。つーか男の顔だけ整ってるとかマジ意味ないし。内面!内面なんだよ男は!!内面が充実すれば男前の顔になる。そしてモテる。確実に。そう思っている女性は私だけではないはずだ。



あと、なんか、実の伴わないうまいこと言ってる人っていうのは分かるよ。

行動と言葉がかみ合わない。

私は文章至上主義ですが、やっぱ行動が伴ってるかは大事っていうか、それは本心か否か(嘘だと自分で自覚しているか)っていう部分でもあって、まあ最悪行動に移していないことだとしてもその人の本音かどうかっていうところが重要なんであります。


(ただし、女同志というのはこの限りではない。女の子のたてまえとうそは、どんなに不誠実でもある意味の真実なので)




ここまで偉そうに言っといてお前はどうなんだよって言われそうですが、

私のメールは、男性から「怒ってる?」ってよく言われます。

たぶん、女性らしい気遣いがなく、主に用件のみで簡潔だからである。または度を越した長文のときは確かに大抵怒っている。


つまり女性の文章としては壊滅的に魅力的でない、と言えるのではないでしょうか。ハハハ。


最近は、なるべく絵文字とか使ったろと心がけてはいるのですが、ここに来て世間のスマフォブームで絵文字が表示されないらしいという現実に直面するに当たり、ならば顔文字なのか、それでいいのか三十三歳、と自問自答の日々であります。


女子力を高めたいぜ!

ちなみに、私の選ぶ女流作家メール女子力ナンバーワンは松崎詩織さん、次いでりんりん(蒼井凜花さん)です。


で、冒頭の、今日いまさっき「おお、この子いいな」って思ったのはニコ動のハチさん でした。

歌詞がいいなって思ったけどツイッターもよかったわ。フォローしちゃおうかしら。



| 週間えむいち | 13:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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何もないの。だからおもしろいんじゃない

先日書き途中で消えてしまった「ボディ・レンタル」の話を。

明日は土曜だけど外出する予定なので、丁度、今週の長文日記として書いておこう。



佐藤亜有子さんの「ボディ・レンタル」を読んだのはちょうど高校生の終わりか、卒業したか、それぐらいの頃だったと思います。

私はあまり記憶力がよくなくて、ほとんどのことを時間の経過とともにあっさりと忘れてしまうのではっきりとは覚えていません。


当時は1990年代後半、桜井亜美さんの「イノセント・ワールド」や村上龍さんの「ラブ&ポップ」が流行し、女子高生であれば何でも許される風潮が世間を満たし、援助交際なる新しい売春のかたちが正当化されつつあった頃だった。ように記憶しています。


覚えているのは、自分が高校生だった頃に、制服姿なら無敵だとはっきり思っていたこと。


田舎の女子高生だった私でもなぜか毎日遊ぶお金があって(ちゃんとバイトしてたのよ、援交じゃないよ)、ルーズソックスを膝下にびっしりと糊付けしつつ学校をさぼってそう安くもなかったカラオケに入りびたったり、ファミレスでのんびりブランチしたり、していたのを思い出します。


私が高校生になるちょっと前くらいはまだバブル華やかなりし頃で、ディスコにお立ち台があり、女子大生がボディコンワンレンで日本を牛耳っていました。

それがなんでか、90年代後半には女子高生の時代に突入した。JKなんつー言葉はまだない。制服姿で繁華街をうろついていても、あまり補導とかされなかったような。なんでだろ?とにかく女子高生、女子高生であればお金を稼ぐ手段はいくらでもあり、それは常に性的な匂いにまみれていた。



それでも「売春」という行為にはやはり痛みや悲壮感が付きまとっていて、いくら呼び名を変えて誤魔化しても、拭いきれない穢れが蓄積されてゆく。

何よりそれを「女の子たち」自身が自覚していて、ヴィトンのバッグを手に笑いながら、「どうせ大人には分からないだろうけど、私たち本当は傷付いています」と自分たちの性を買う大人を軽蔑することで主張していた。


当時の文芸作品にはその軽薄さと穢れについて言及したものが多かったように思います。

いわば女の子たちの「自覚のない自傷」を描いたものです。



その中でこの「ボディ・レンタル」は、性を売る行為になんら感傷も意味もないんだよ、という新しい解釈をもたらした物語でした。


東大生である主人公「マヤ」は、ある日思いついて自らの身体をレンタルする「ボディ・レンタル」なる稼業を開始する。それは「モノとしての自分」を楽しむことで、レンタルされる自らの体はあくまでファーストフード的な軽い存在でいい。と彼女は言います。

「これは自虐でもなく、復讐でもなく、しいて言えば軽くなるためにしていることだ」


自らのボディ・レンタルを小説のアイデアとして友人に説明する彼女が「でも、彼女の動機は?」と聞かれたときに答える言葉が、

「何もないの。だからおもしろいんじゃない」




とはいえ、この小説の中には肉体と精神をとても切り離せない人物が多く登場します。

マヤはその感情の波をただ受け流しながら、ひたすら、自分は軽くなろうとするわけで、読者としてはやっぱり彼女が肉体と精神の剥離に拘るにはなにか理由があるのではないか、つまり、心が傷付いているからこそモノになりたいと願うのではないかと予想してしまうのですが、それは邪推というものでしょう。


彼女がモノになりたい、ただひとつそれらしき理由として書かれているのは「昔から、富豪に買われた女奴隷や娼婦の出てくる映画を見るたびに、うっとりするようないい気分になった。(中略)憎しみや倦怠などという安っぽい感情を超えて、彼女たちは単なるモノのように美しかった」。


つまり彼女が肉体をレンタルするのは、自らの性的趣向によるものだという主張です。




私はこの物語にとても共感したのです。


女の子なんだから身体を大事に、純潔を守りなさい、そうでないと傷付くのは自分だよ。

はっきりと言葉に出さなくとも、世間は、大人は、男は私たちにそう警告してきました。

性を売る女の子の「自覚のない自傷」をテーマにした小説も、つまり言いたいことは同じです。

「傷付いているから肉体を軽視するのだ」というわけです。


かなしいことに、これは多くの場合的を得ている。

確かに愛のないセックスは女をすり減らし、傷つけます。

なぜなら、女の子という生き物は、「愛なく抱かれれば傷付くものだ」と常々刷り込まれているからです。

その前提と判断基準が世間と自分の中に常識として存在するから、愛のないセックスに、傷付くのです。



でも少女の私はそのことに、なんだかとても腹が立っていた。


確かに好きな人には抱かれたいと思うし、欲情もします。

でもそうでない欲情だってある。

男にそれがあるのと同じで、女にだってあるのです。愛のない、ただの欲情というものが。


訳知り顔の人たちが「女の子なんだから体を大事にしなさい」と優しく言うのを見るたびに、なんだかそれは違うと感じていました。

それは優しさにカモフラージュした、何か、べつのものであるように思えてならなかった。

「女なのだから、愛のないセックスには傷付くべきだ、穢れるべきだ」という、脅迫めいた押し付けにしか聞こえなかった。



「ボディ・レンタル」という本が私にとって何か大切なものに感じられたのは、そういう憤りのようなものを、マヤに自分と同じ匂いを嗅ぐ事が出来たからなのかもしれません。

(もしかしたら作者の意図とは違うのかもしれないけれど、それでいいのだ。本と言うのはその人それぞれがそれぞれのルーツによって違う場所に共感するものだから)




本当は、愛のないセックスが女を傷つけるんじゃない。

欲情のないセックスが女を傷つけるのだと思う。

そしてその欲情は、愛ばかりに根ざしているわけではないのです。

ただの、ごくごく単純な、生理的欲求に過ぎない。

その欲求を満たすことに、なぜうしろゆびを指されなくてはいけないのでしょう。

せめて、男のそれと同じくらいには正当化されるべきなのではないでしょうか。


確かに、売春という行為には欲情はあまりありません。濡れない挿入は、確かに痛い。

でも、ただそれだけです。

私たちはたかがセックスひとつで、何も穢れたり、傷付いたりしない。

磨り減ったりしない。

どんなに多くの男と寝ようと、人間としての価値が下がったりはしないのです。



「体を大事にしなさい」という言葉は、ひとつの呪いなのだと思う。

その呪いを跳ね返す呪文。それが「(動機は)なにもないの」であるのかもしれません。




| 週間えむいち | 15:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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自分で立つ。

さて年も明けたことですし何か新しいことを始めてみようかと思い、そう言えば最近携帯で更新してばっかで長文のブログ書いてないな~

というわけで毎週土曜にできるだけ長文ブログを書こう!ということにしてみました。

いつまで続くか分からないけどね……。


そう言えば携帯小説も二ヶ月くらいで更新を諦めてしまった!

年明けたし再開しようっと。


そんなわけで。



今日のテーマは女の自立について。

大きく出ました(笑)とゆうか私の自立についてだけど。


私はもう、ほんとうに自立してゆかなくてはいけないと思うのです。



ちょっと前に、アリーマイラブっていう海外ドラマがあったのをご存知でしょうか。

アメリカ的裁判を舞台に弁護士のアリーが自分探しに奮闘するって感じのドラマで、日本の裁判員制度導入に関係してケーブルテレビとかで結構ひんぱんに再放送してるんですが。


シーズン5で打ち切りの関係もあったようなのですが、何度恋愛をしてもいまいちうまくいかない主役のアリーが最後、養子を迎えて、彼女のためにNYを離れるっていう最終回だったんですよね。

なんか、一見、恋愛ドラマとして見ると諦めたような、可哀想なラストに見えてしまうんですが、あれ、女の自立としてはアリなのかもしれないなーって思えるようになってきた。


アリーは恋愛しないと生きてゆけない女性なのだと思います。

誰かを愛して、何よりも自分が誰かに愛されて安定したい、一人で平気に生きていくほど強くない。

本当なら運命の人と出会ってそのひとと一緒に幸福に年を重ねるのがハッピーエンドなのかもしれないけれども、まあ、今の世の中なかなかそうもいきませぬ。


だって目を開いてしまったら、見えるものがたくさんあるんだもん。



私もわりあい恋愛依存気味の人間ではありますが、二度も結婚して分かったことは、どうやら自分は誰かに一生愛される女ではないみたい。

それはもちろん相手の問題だけでなく、むしろ私の問題であります。

ちゃんと家庭を守ることはできないし、男に守られるのも嫌いだし。だからといって何かを生み出さない男を養っていくのは現実的じゃない。専業主婦であるとかないとかそういう問題ではなくてねー。


人は誰でも、できたら恋愛していたいものだと思います。結婚したら恋愛は家族愛になって、それは尊いものだけど。

いったい誰が、ただ夫(妻)の家族でありたいなんて思うでしょうか。

ほんとうなら自分だけに恋してほしい、愛してほしい、大切にしてほしい、他の誰にも真心を分け与えて欲しくないと思うに決まっています。


でも正直いって私の知るかぎり、浮気心のない男性というのはいないと思う。

(ちなみに、昔は女性には割りといたけど、今は稀かも)

浮気したくてもできない、という男性はまあいるでしょうが、もしも自分好みのすてきな女性に積極的にせまられてそれをふりほどけるひとはまずいない。とても善良なだんなさまで(勇気がないだけかも)、家族のことを考えて浮気を踏みとどまることのできるひとは稀にいるでしょうけれども、それでも心のどこかで必ず誰かに新しく恋をする。

私は我儘で傲慢な女なので、自分の男にはそんな、他所の女へのプラトニックな恋心すら許したくないのです。

でもそれは止める手段のないことだ。そして、恋もできない男は面白みもないわけで。

だけど浮気をされたら黙ってどんと構えて、男が帰って来るのを待つなんてとてもできない。


どうでしょうこのジレンマ。私はどうやら、自分だけのものにならない男がどうしても好きなんだなー、あーしょうがないしょうがない。

まあ、私だって誰か一人を一生好きでいて、他の誰にも心を奪われないなんて約束はできないのでこれはお互い様なんですが。


そんな、欲しいものとよく似たものが目の前にぶらさがっているのに、ほんとうには何も手に入らないような、無限ループの業からはもう抜け出したいんだわ!!

だってそれ(いわば私だけに注がれる永遠の愛とでもいうようなもの)、現実には存在しないんだもん!




そんなわけで、私はもう男には何も期待しないことにしようと思う。

男を精神的に頼りにする人生は終わりだっ。

そのかわり、私も誰か男のためには生きない。何も守らないし約束しない。


自分ひとりの足でちゃんと立つ覚悟があれば、別に、人生に伴侶なんかなくても良いんじゃないかしら。

死ぬ時に愛する異性が傍らにいたらそれはすばらしいことだけど、どうも、私はそのご褒美にありつく根気と根性はなさそうです。


まあまだ二度目の結婚がいちおう継続中だけど、ま、いつまで続くか分からんし。もし今度離婚したらもう結婚するのはやめようと思う。


でも私は恋愛依存の女であるから二度と恋愛しないとは言えないし、恋やら愛やらは溢れてしまうものだから、まあそのとき好きなひとを与えたい時に与えたいだけは愛するだろうけど、それはあくまでエゴなんだわ。

見返りを期待しなければ、愛情を注ぐというのはとても気持ちの良いことです。


そんで、だけど自分ひとりのために働いて生きてゆくのはちょっとつまらなくて甲斐のないことだと思うから、そのとき好きな男の子供は産みたいなー。そして一人で育てるのだ。

まあ昨今、問題なく子供が産める身体という保証もないので、もし産めなかったらアリーみたいに養子を貰って育てよう。

まあ産んでさらに養子でも良いんだけど。


あるていどの年齢になったら、男じゃなくて子供にお金と愛を与えまくって悩みたい。

同じエゴなら、まだ、そのほうが押し付け甲斐もあるというもんです。



だからー、わたくし的自立は、一人で子供を育てられるようになることだな。

そういう人生設計を組んで、この先、頑張って働いてゆきたい所存であります。


人生の伴侶を見つけるのは、自分が大概ババァになって相手ももう男の役に立たないような、そんな時でいいや。






まあ実際のトコ、どんなに現実を分かっていても、それでも本当は一生の愛が欲しい。

せめて約束だけでもして欲しい。

そんな「女」の自分がいるのを、上手になだめすかしつつ。

(大丈夫、頭で欲しいものと本当に必要なものは違うのだ)


三十三歳正月の誓いに、これを覚えておこう。

| 週間えむいち | 14:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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