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官能小説家、深志美由紀ブログ

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何もないの。だからおもしろいんじゃない

先日書き途中で消えてしまった「ボディ・レンタル」の話を。

明日は土曜だけど外出する予定なので、丁度、今週の長文日記として書いておこう。



佐藤亜有子さんの「ボディ・レンタル」を読んだのはちょうど高校生の終わりか、卒業したか、それぐらいの頃だったと思います。

私はあまり記憶力がよくなくて、ほとんどのことを時間の経過とともにあっさりと忘れてしまうのではっきりとは覚えていません。


当時は1990年代後半、桜井亜美さんの「イノセント・ワールド」や村上龍さんの「ラブ&ポップ」が流行し、女子高生であれば何でも許される風潮が世間を満たし、援助交際なる新しい売春のかたちが正当化されつつあった頃だった。ように記憶しています。


覚えているのは、自分が高校生だった頃に、制服姿なら無敵だとはっきり思っていたこと。


田舎の女子高生だった私でもなぜか毎日遊ぶお金があって(ちゃんとバイトしてたのよ、援交じゃないよ)、ルーズソックスを膝下にびっしりと糊付けしつつ学校をさぼってそう安くもなかったカラオケに入りびたったり、ファミレスでのんびりブランチしたり、していたのを思い出します。


私が高校生になるちょっと前くらいはまだバブル華やかなりし頃で、ディスコにお立ち台があり、女子大生がボディコンワンレンで日本を牛耳っていました。

それがなんでか、90年代後半には女子高生の時代に突入した。JKなんつー言葉はまだない。制服姿で繁華街をうろついていても、あまり補導とかされなかったような。なんでだろ?とにかく女子高生、女子高生であればお金を稼ぐ手段はいくらでもあり、それは常に性的な匂いにまみれていた。



それでも「売春」という行為にはやはり痛みや悲壮感が付きまとっていて、いくら呼び名を変えて誤魔化しても、拭いきれない穢れが蓄積されてゆく。

何よりそれを「女の子たち」自身が自覚していて、ヴィトンのバッグを手に笑いながら、「どうせ大人には分からないだろうけど、私たち本当は傷付いています」と自分たちの性を買う大人を軽蔑することで主張していた。


当時の文芸作品にはその軽薄さと穢れについて言及したものが多かったように思います。

いわば女の子たちの「自覚のない自傷」を描いたものです。



その中でこの「ボディ・レンタル」は、性を売る行為になんら感傷も意味もないんだよ、という新しい解釈をもたらした物語でした。


東大生である主人公「マヤ」は、ある日思いついて自らの身体をレンタルする「ボディ・レンタル」なる稼業を開始する。それは「モノとしての自分」を楽しむことで、レンタルされる自らの体はあくまでファーストフード的な軽い存在でいい。と彼女は言います。

「これは自虐でもなく、復讐でもなく、しいて言えば軽くなるためにしていることだ」


自らのボディ・レンタルを小説のアイデアとして友人に説明する彼女が「でも、彼女の動機は?」と聞かれたときに答える言葉が、

「何もないの。だからおもしろいんじゃない」




とはいえ、この小説の中には肉体と精神をとても切り離せない人物が多く登場します。

マヤはその感情の波をただ受け流しながら、ひたすら、自分は軽くなろうとするわけで、読者としてはやっぱり彼女が肉体と精神の剥離に拘るにはなにか理由があるのではないか、つまり、心が傷付いているからこそモノになりたいと願うのではないかと予想してしまうのですが、それは邪推というものでしょう。


彼女がモノになりたい、ただひとつそれらしき理由として書かれているのは「昔から、富豪に買われた女奴隷や娼婦の出てくる映画を見るたびに、うっとりするようないい気分になった。(中略)憎しみや倦怠などという安っぽい感情を超えて、彼女たちは単なるモノのように美しかった」。


つまり彼女が肉体をレンタルするのは、自らの性的趣向によるものだという主張です。




私はこの物語にとても共感したのです。


女の子なんだから身体を大事に、純潔を守りなさい、そうでないと傷付くのは自分だよ。

はっきりと言葉に出さなくとも、世間は、大人は、男は私たちにそう警告してきました。

性を売る女の子の「自覚のない自傷」をテーマにした小説も、つまり言いたいことは同じです。

「傷付いているから肉体を軽視するのだ」というわけです。


かなしいことに、これは多くの場合的を得ている。

確かに愛のないセックスは女をすり減らし、傷つけます。

なぜなら、女の子という生き物は、「愛なく抱かれれば傷付くものだ」と常々刷り込まれているからです。

その前提と判断基準が世間と自分の中に常識として存在するから、愛のないセックスに、傷付くのです。



でも少女の私はそのことに、なんだかとても腹が立っていた。


確かに好きな人には抱かれたいと思うし、欲情もします。

でもそうでない欲情だってある。

男にそれがあるのと同じで、女にだってあるのです。愛のない、ただの欲情というものが。


訳知り顔の人たちが「女の子なんだから体を大事にしなさい」と優しく言うのを見るたびに、なんだかそれは違うと感じていました。

それは優しさにカモフラージュした、何か、べつのものであるように思えてならなかった。

「女なのだから、愛のないセックスには傷付くべきだ、穢れるべきだ」という、脅迫めいた押し付けにしか聞こえなかった。



「ボディ・レンタル」という本が私にとって何か大切なものに感じられたのは、そういう憤りのようなものを、マヤに自分と同じ匂いを嗅ぐ事が出来たからなのかもしれません。

(もしかしたら作者の意図とは違うのかもしれないけれど、それでいいのだ。本と言うのはその人それぞれがそれぞれのルーツによって違う場所に共感するものだから)




本当は、愛のないセックスが女を傷つけるんじゃない。

欲情のないセックスが女を傷つけるのだと思う。

そしてその欲情は、愛ばかりに根ざしているわけではないのです。

ただの、ごくごく単純な、生理的欲求に過ぎない。

その欲求を満たすことに、なぜうしろゆびを指されなくてはいけないのでしょう。

せめて、男のそれと同じくらいには正当化されるべきなのではないでしょうか。


確かに、売春という行為には欲情はあまりありません。濡れない挿入は、確かに痛い。

でも、ただそれだけです。

私たちはたかがセックスひとつで、何も穢れたり、傷付いたりしない。

磨り減ったりしない。

どんなに多くの男と寝ようと、人間としての価値が下がったりはしないのです。



「体を大事にしなさい」という言葉は、ひとつの呪いなのだと思う。

その呪いを跳ね返す呪文。それが「(動機は)なにもないの」であるのかもしれません。




| 週間えむいち | 15:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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