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CabaretM1

官能小説家、深志美由紀ブログ

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ファザーファッカー

幼い頃、母と離れて暮らしていた。

父はいなかった。

私は祖父母に育てられて、祖父のことを「とうちゃん」と呼んでいた。祖母がそう呼ぶからだ。


「おじいちゃんはお父さんじゃないんだよ」とか、

「みゆきちゃんちはお父さんがいないからサンタさんは来ないね」とか(そもそもうちにはサンタクロースという制度はなかった)、

まあそういう感じのアレコレは小学校に上がるまえに一通り経験したし、今でも覚えている。

(ちなみにこの頃一番アレな思い出は、おそらく経済的理由から幼稚園を中退したのちも近所なのでつい遊びに行ってしまい、「あのね、みゆきちゃんはもう幼稚園きちゃだめなの」と先生から気まずそうに諭されたことであった)



祖父母は大声で言い争いの耐えない夫婦だったし、祖父は正直言って親族にはひとくさりイヤな男であったが、私は愛されていた。

というか彼は孫を軒並み愛していたのであるが、なにしろちょっとでも愛が報われないと怒鳴り散らしてしまうので他の孫らには敬遠されていた。たぶん、愛情の示し方をあまりよく知らない人だったのだと思う。

今でも人付き合いの下手な、気難しい男性の本質を慮ってしまうのはそのせい。

毎晩ひざの上に載せられて、手の平から酒のつまみをもらった。

定年した祖父の昼食は近所の屋台のタコ焼きで、私が一人でおつかいをして買って来て一緒に食べた。だから私は今もタコ焼きが大好きなのだ。


小学校にあがるまえに母の再婚した人は優しくて面倒見のいいとてもいい父親で、私は彼だけを父だと思っているけれど、自分は正直甘え方を知らない、可愛くない娘だったと思う。

彼には一度も何かを褒められた覚えがない。祖父が亡くなる前に思わず言葉を失い、流してしまった涙を笑われたことは一生忘れないだろう(そんな「父」も不器用な人だったのだろうと、今なら分かる)。



いわゆる「ほんとうのお父さん」は名前も知らず、顔を見たこともないまま、私が18のときに死んでしまった。

「死ぬ前に一度娘に会いたい」という電話を無視してしまったと、母が後日泣いた。

そのこと自体は別段哀しいことでもない。

結局、私の知らない人だから。




あまりに近親相姦モノばかりを書いていたらばあるひとに、

「君は父性に飢えているのだから、この際父性を求め続ける話をとことん書いたら良いのじゃないか」と言われたときには正直腹が立った。

私はべつに。

寂しいわけじゃないんだし。

そんなつもりじゃないんです。


と思ったけど、やっぱりそっから視点が離れない。

あーあ。


結局、「良い子だね」と頭を撫でてくれる手の平を捜し続けているのは私なのかもしれない。

なんてこったい。


(とはいえ、一応、親族の名誉のために言っておきますがわたくし、親戚や義親に性的虐待されたことなどは一切ありません)




ところで母は、私が「小さな頃お母さん一緒に住んでなかったよね」と言うと(焼酎を飲みながら)たいへん嘆く。

彼女は「ほんのちょっとの間だけじゃない。赤ちゃんの時は一緒だったわよ!」と言うけれど、まあ、生まれて4年足らずの子供にとって1年くらいって長いのよね。赤ん坊のときのことなんかおぼえてないし~。


というわけで、あれです。ぶっちゃけ赤ん坊の時というよりは結構、物心ついてからすぐが子育てのキモですよ。

ワケありママの皆さんは参考にしていただきたい。





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